2009年05月12日

本当の「怖いものなし」になれ

お化け、強権者、剛腕の者…そういった、子供の頃に想像するような怖いものに無鉄砲に「怖くないもん!」と飛び込んでいくのが「怖いものなし」であるというイメージを持ったまま、いつしかこの言葉を忘れてしまって大人として暮らしている人は多いと思う。

だが、そのイメージを大人として再解釈して、まったく違った怖いものなしを目指すのは成功への一歩だと信じて疑わない。

大人になればなるほど、怖いものは増えていく。
しかし、子ども時代に当たり前のように感じる怖い対象と言うのは、実は戦いを挑む相手などではなく、素直に逃げる相手であることがほとんどだ。
子供の本能と言うのは自分の身を守るために正しい反応を引き起こすのであって、それを麻痺させて怖いと感じないようにしてしまっては、せっかく備わっていた本来の野生のセンサーを鈍らせただけということになる。

大人になってから克服すべき怖いものには一体どんなものがあるだろうか。
これは個人差が出てくることだろう。
だが、例えば、潔癖症気味の人にとって克服すべきものと言うものを上げるならば、それは「汚いもの」ということになる。

チリ、ホコリ、カビ…そういったものを「汚い」「汚らわしい」「怖い」と感じてしまい、避けたり、触れることができない人間。
それはすなわち、その者に「弱点がある」ということにほかならない。

だが、この世に本当に汚いものなどあるのだろうか?

この弱点を克服し、怖いものなしになれば、汚物を平然と片付けることも、汚物の中にある宝石を、手を突っ込んでつかみ取ることもできるようになる。

そもそもゴミ、ホコリ、とは何だろうか?
これらは一体どこからやってきたのだろう?

まず、「ちり」という言葉を再評価してみるといい。
これは、本来は洋服の一部の繊維であったり、そとの土が舞い散ったものであったり、いわば、所属しているべきところに所属していれば、一員として汚くも何ともないものが、母体を離れ、組織やまとまりを構成する要素であることをやめて、散り、離れてきたものである。

本来あるべきでないところに、あるべきでないものが存在する、それが「ちり」であり、「役に立たない、ゴミ」なのだ。
糞便ですらも、体内にあった時には大事な体の一部だった。
「もういらない」と排泄した時から、それは無用の長物となり、むしろ離れてどこかへやってしまいたい邪魔者となる。

社会でもそうだ。自分自身がゴミとならないためには、自分が所属するべきところを見つけ、そこから振り落とされないように、中へ中へ、と潜ろうとする、すなわちまとまっていくことが良いと知っている者は、組織を構成しようとするか、同質の者同士で団結しようとする。
それがちっぽけであると、大きな目線で見た時にその団体ごとチリとなりかねないので、ますます大きく育とうとする。

散りたくない、それが、自分たちは汚いものではなく、ここに、いま、存在しているのだぞという決意表明となっている。
社会的に生きる法人などもそうかもしれない。

これらはただの似た者のまとまりであれば、「土」である。潤いを無くし、吸着力が減れば、どんどん外からの風で吹き飛ばされて土ぼこりとなる。
組織だっていれば、結晶が育って宝石や貴金属となったのであり、男性陣は主にそうあることを望む。純化がこれを生む。競い合い、研ぎ澄まし合う。まさに澄んでいく。
したがって、それ以外は「ゴミのようだ」と感ずる集団だ。これを目指す者たちには少々人を見下したがる傾向があるように見受けられる。

だがものはすべて固定的ではなく、離れるものがあり、新たに仲間となるものがある。
一時的なチリであっても、また自分を生かす場があれば、チリはチリなどでなくなるのだ。

もしも自分の身の回りが「散らかって」つまりチリだらけになっていたなら、これを「汚い」と言って忌み嫌うものは、この世界の真理の役に立っていないと言えるだろう。
役だっていないものを再利用すること、まとまっていないものを再び同じ者同士でまとめること、それは散らかりを片付けることで、整理整頓は世界のため、と言える。

土ぼこりも綿ぼこりも、どこかで誰かの役に立ったり、美しい、素晴らしいと愛でられていた自然の一部だったりしたものが、はぐれものになっただけなのだ。
これらを愛おしみ、「どこからきたの?」と心の中で親しく話しかけ、感謝し、「また良い仲間に出会えますように」「また有意義に働ける場所へ行けますように」と祈ってあげて、ほうきや掃除機で「スック無くともここはあなたの活躍できる場所でも居るべき場所でもないから」と教えてあげる行為が、清掃なのではないか。
だからこそ、「真の掃除」をすることのできるものは、ただそれだけで心の修行をしていると言える。
何事にも道があり、掃除道も極めればこのようにひとつの心理にたどり着くことができるのだ。

この境地に達すれば、なにものも「汚い」などという考えがなくなる。
いきなり境地に達すること等は無理かもしれないが、少なくとも嫌悪感、触ることもできないという気持ちはやわらぐはずだ。

ケガレにさわると自分も穢れそうで嫌だと忌避するのは、実は自分が弱いこと、衰えていることの表れである。
怖いのは、相手に負けてしまいそうだからだ。
汚いもの、穢れたものに触ったら、相手の穢れを祓うことができる、と考えるか、あるいは自分の清さが負けて相手の穢れが浸蝕してくる!と
恐れるか…

赤ん坊と言うのは汚い場所へでも何でも突っ込んで行ってしまう。
子供は泥遊びや犬のフンなどの汚いものが好きだったりする。
彼らはフレッシュで勢いがあり健康だから、相手の汚さが自分に入り込んでくるなんて恐れがない。
どんどん新陳代謝を繰り返し、かりに皮膚ににおいが着こうとも、そんな皮膚ごと外へと送りだしてしまうからだ。

元気な証拠なのである。

老人はどんなに汚いものに触れないように頑張っても、なぜか自分自身が汚いような気持ちになったりすることがある。体臭、口臭、フケ、シミなどといった、いわゆる「本来あるべきでないもの」が体にまとわりついて歩く。

子供の方が新陳代謝が早く、どんどんチリとなるものを発生していると言うのに、この差は何か?

それは第一には長期間滞在しているということ。フケだって出た途端に吹き飛んでどこかに行ってしまうのならば、出したって汚いと思われないだろう。だが頭皮や髪にまとわりついたままになっているから不潔に思うのだ。

第二に、潤いの無さ。乾燥して肌や頭皮がガサガサとしてはがれおちていく、バラバラと風に飛ばされていくのは、まさにチリを大量発生しているのが目に見えて判ってしまう。
ところが、若い子供は、乾燥で離散することはなく、潤いを保ったまま、水に流す。
バラバラにさせずに、親水性のあるいは新油性の、液状のものに見えないように溶かしこんでいる。

液状のもの・・・それは潤滑油だ。
社会でもそう。ある組織からはぐれた技術者が、一旦失業をして、そののちに再就職先を見つけるのが、老いた体の象徴だとすれば、まだまだ所属組織で働いている技術者に仲介者がスカウトの声をかけ、あるいは大量の豊富な求人情報を見てスキルアップのために、はぐれオオカミになることなく、チリとなることなく、スムーズに次の組織へと転職していく・・・それが若い体。

まだまだ使えるのに、いや、まだここにいて欲しい位だったのに・・・と惜しまれながら、その組織から別の組織へ。

それは失業者の無い世界だ。

固定的な組織に属していなくとも、流動性のある仕事をする者たち、この媒介者たちがあるかないか、あったなら、その質が良いかどうか、正しい働きをするかどうかが、社会にチリ・ホコリを作らないためのポイントである。

家庭内で言えば、適度な湿度でモノが保管され、水ぶきや油で磨き、水洗いされて流されていれば清浄度が高い。
うるおいは大切だ。

感想し、紙クズや洋服から千切れた繊維が離散するほど、チリは増える。
だが、これらのチリは決して本質的に汚いわけではない。ミクロの世界で見れば、何か意味のあるものを構成しているものも、構成していないものも、なにも変わらない物体であったりする。
汚いなどと顔をしかめるのでなく、お勤め御苦労さま、いまは休んでいるのですね、と語りかけることが出来たなら、怖いものはなくなる。

かれらチリのために、どこか適したよその場所へ、移動するための第一歩を歩ませてあげることだ。
祝福して送り出してあげられるか、使い捨てのように顔をしかめてとっとと出て行けという気持ちで捨てるのか、これだけでまったく徳が違う。

小さな世界のチリをただの汚いもの、用をなさない、役立たずのものとみなすような人間には、当然ながら大きな世界でも同じような無意識の視点を持っているものだ。
道具でも、組織でも、人間関係でも、自分の役に立っている間だけ、自分の都合のいい働きをしている間だけは関係を持とうとするが、都合が悪くなった、必要がなくなった、興味が失せた…となった瞬間に、「邪魔だ」と顔をしかめ、邪険に扱うようになる。

こんな人間が会社など作ろうとすれば、どうなることか。
彼らは、組織を作ろうとしている時だけは、まるで理想的なものを作り出せるかのように夢を描いているだろう。何かをしたいと思う時には、それに関わるすべての人や物は自分にとっての必要なものだと認識できているためだ。
すべての構成員は光輝いているように思い、全身全霊で祝福しようとし、もしも彼らが自分の元を離れる時には、応援とはなむけの言葉をかけて全ての構成員を円満退社させてあげられるに違いない…と信じ込むタイプである。

だが実際に、人間には欠点もあれば弱さもある、時には悪意もある。
これらに翻弄されても、自分に都合のいいものと悪いものを見分け、致命的なものを遠ざけつつも、なお清濁併せのんで潤いを保たせることができるかどうか?
去りゆくもの、去って行ったものは「もう関係ない」とフォローしないことが多い。

子の様な人間が若い頃から惹かれる言葉に「来るもの拒まず、去る者追わず」といったものがある。
実践すればどうなるか?
チリが積もっても払わない。そのまま癒着する。
風に吹き飛ばされそうになっている者にも手を差し伸べない。
組織化されないごちゃ混ぜの土が、表面に滞っている、しかも風呂にも入らない、老体の姿である。

これは本来、十分に酸いも甘いも噛み、経験も十分に積んでから初めてそれがよいのだと感ずるようになる達観の境地であって、それまでにはトラックを何周かして学ぶべきものがたくさんある。

だが、体の弱いタイプ、ヨゴレ、ケガレを嫌がるタイプ、失敗して泥に手を突く転び方をするのを恐れるタイプは、いきなり老人になろうとする。
人生の学びを放棄して、あたかも経験を積み終えた成功者のようにふるまおうとする。
中味の無い、空虚な背伸び・・・それは年輪のない、皮だけの樹木のように、かんたんに折れてしまう。

外からの見た目だけを真似した所で、それはサルまねに過ぎない。

自分に興味を持ってくれた人、好意を持ってくれた人、便宜を取り計らってくれた人…そう言う人に、いつまでたってもこちらから感謝の握手を差し伸べることもなく、自分に興味のない人間、利用するだけしようとする人間と全く平等に扱って「ひいきをしない自分」などと悦に入る。

良いものを育て、悪いものをけん制すると言う社会的道義を放棄して、世捨て人を気取る若者になり果てる。

自分から努力をしないため、他人が自分との関係維持に努力をしてくれているかもしれないということにすら気付けない。
他人の気持ちのわからない人間の一丁上がりである。
そして人の心を傷つけても、「自分は何もしていないので相手が勝手に期待をして傷ついた」というモノの見方をする。
したがって去っていく友人知人には、まるで邪魔だったゴミが風邪で飛んでいっただけかのような目線しか持っていない。

心に潤いのない人間と言うのはこうだ。
そして、汚いもの、汚い場所がキライで、自分では触りたくもなく、メンテナンスできないと言い、理由は自分が清過ぎるからだと信じている。

だが何度も言う。本当に清ければ、周りまで清さを及ぼすことができるのだ。
世の中が汚い、自分だけが綺麗だと感じている人間は、チリをチリとしか見ることができず、過去や未来の可能性に頭が働かず、感謝が足りず、夢や計画を描くことのできない人間です、と自白しているようなものだ。

このことに30代、40代になって気付いても、過ぎてしまったこれまでの人生を修正することは不可能。
だが、完全に遅いとは言えない。
もしも気付いたなら、急いで「節」を作ることだ。巨木にはなれないかもしれないが、巨大な草になることならできるかもしれない。
つまり、松がダメなら竹のようになればいい。

定期的に、大きな失敗や大きな恥のリスクを取って、傷口に頑丈なカサブタでもつくるように、人生の転換、大きな節目を作ることで強くなれる。
節目の後は、生まれ変わったように別の世界が見えてくる。

その一歩が、世界観を変えること、認識を変えることだ。
この世界・この宇宙はすべて同一のものからできたのであって、本質的に汚い「もの」などはない。
汚い、というのは、あくまでもモノの「状態」に過ぎないのだ。
置かれた状態、陥っている状態を変えることができるかどうかは、自分の体の「元気」心の「健康」によって決まる。
本当に綺麗で活気のある物は、汚い状態のものに触れてもすぐに洗い流すことができたり、さらには汚いと思われていた状態を改善して必要な状態のものに変えてしまうパワーすら持っている。

状態や状況を変える力が自分にあると信じることができるかどうか、それが若さであり美しさであり穢れのなさなのだ。

無関心、無関与、諦め、判断力の無さ、ふるい分け能力の無さ、これは病気または不健康、傷ついた状態、あるいは老い、の現れであり、それをケガレという。元気がなく、気が枯れているから、チリまみれの状態になっているということだ。

考えが変わったら、さっそく元気いっぱいの人間になって、世の中を浄化してほしい。
まずは自分の体から、そして自分の部屋から、自分の人間関係から変えていくことができる。

元気がある人間は、怖いものなしだ。
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2008年06月09日

連帯と独自

人がどうあがいても、抜け出すことのできない宿命というものがありますよね。

太陽が東から昇るということ。春の後には夏に向かう、それは極めれば秋冬へ向かうということ。

それを、自分一人だけ早めたり遅めたりは出来ません。
自分のいる場所の付近の人たちは、みな自分と同じ環境にある。

農家の人は、一番適した時期を狙って、みな一斉に田んぼに水をひき、一斉に稲を刈る。
受身で、変えることのできないものをただ受け入れ、「皆一緒」という価値観に支配されやすい、「農家系」。

皆で一緒にやることで、良いこともあります。
みんなが夏に海へ行きたいと思い、皆が冬に暖房と付けたいと思うならば、その時期に海にお店を出して浮き輪を用意したり、冬にはおもちを売ったり。

お中元やバレンタインデーなど、お祭り的なことというのは、「みんなで楽しむ」ものの最たるものでしょう。


もしもこのようなルールから逃れたければ、南半球に行くことで季節を正反対にすることができます。
あるいは、赤道直下や、極付近に行くことでも、それまでのしきたりから逃れることができます。

しかし、新しく逃れた先では、またその周囲の人と同じ季節を体験することになります。自分一人だけ変えることはできない。
かつてと違うという記憶を持っている自分が、過去のルールと自分は「違う」ことを体験している、と認識するだけで、結局はその場その時、現在においては周囲と同じ季節・体験を共有して生きるしかないのです。

個人が周囲から自由に生きられる部分と、周囲とは一緒である・独自が効かない無理な部分を学び、独自の部分で相手と連帯しようとしたり、連帯している部分で独自であろうと望んだりしないことが、大切なのですね。

それを、学んでいくのだと思います。
自然科学で、社会で、あらゆるもので、学ぶんです。
どこからどこまでが「自分」であり、どこからどこまでは「自然」であるのか。

そして、その基礎ができれば、次は「活かす」のですね。
「独自スタイル」の特徴をつかみ、メリットとデメリットを踏まえて生かす。
「連帯スタイル」の特徴をつかみ、そのメリットとデメリットを踏まえて生かす。

独自にもなれるところ…個体動物としての部分でで、あえて連帯スタイルの「みんなで楽しむ」「みんなで共有する」「みんなで協力する」などを採用して、それに加わったり、皆に呼びかけてみてもいい。
でも、本来独自でいい部分なのだ、という原点を忘れない。

本来連帯であるところ…自然環境の部分で、あえて独自スタイルの「冷暖房」「時期外れの海水浴」「ハウス栽培や外国の食べ物を摂る」などをしてみてもいい。
でも、本来それは異常なことを通しているのだ、という原点を忘れない。

われわれが個体を自由に動かせるように生きてきたこと、心を外部から見えないように設置されていることは、行動や感じ方、価値観、情…等といったものは、本来独自のものなのだ、ということを忘れないことが大切なのだと思います。

たとえ、「これはこう考えるべきだよ!」「この場合こう行動するべきだよ!」「お前のやりかたは嫌いだよ!」と言ってくるものがあったとしても、それは相手の「勧誘」に過ぎず、それに「乗る」か「乗らない」かは、自分が決めること。


われわれが、太陽系第三番惑星の、地球という星に、人間という動物として、現代に生まれてきたこと、それは、同じ星に住む仲間と、本来連帯しているものなのだ、これについてはともにいる周りのみんなも一緒なのだということを忘れないことが大切。

例え「自分は今べつに寒くなんかない」と感じたとしても、あるいは思ったとしても、思うことは自由にせよ、周囲がマイナス気温であることは隣の人も一緒なのだ、「一般的に」それは人間という動物の活動の適温よりも低いのだ、という常識を知り、自分さえよければと、周囲の確認も同意も取らずに暖房を消してしまうことのないようにしたい。

もちろん自分が「寒いから暖を取りたい」と思うならば、周囲も同じように寒いから暖を取りたいと思うのだから、自分だけがあたたまればよいとストーブを独り占めしないことも大切だ。


常識というものは、まちがいなく存在はする。しかし、生きていると、常識を持つべき範囲を勘違いしている人に悩まされることが多い。

常識とはもっと絶対的なもので、誰もが納得する普遍性を持っているものだ。
よほどイレギュラーでない限り、皆が共有できる感覚を持つものだ。


正しい常識の感覚を持つことが大切なのは、それが結局は当人にとっても利益となることが多いだろうから。

本来は自由であるべき所に、「常識を…」「普通は…」と言ってくる人間もいる。

相手に価値観を強要しようとする者の半数は、「人はみな違っていていいものなのだ」という常識を知らない人間だ。

惑わされないように気をつけたいものだと思う。
posted by 成功太郎 at 14:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年12月19日

モモ

おもしろいことがあった。
ひょっとすると、以前、この成功をすでに知っていて、いつしか忘れてしまっていただけなのかもしれない。

ラミネートしながら、バッヂをプレスしながら、絵を描きながら、メールを打ちながら、ページ更新作業をしながら、、、広い場所にいくつものミッションの風呂敷を広げて、同時に進行させる。
部屋は散らかる。しかし、ストレスがない。

一つのことに少しでも疲れたら、他のことをやる。その切り替えの時に、頭がハッとトイレのこと家事のことその他の用事などを思い出す。

とても長くかかる大きなプロジェクトならば、ひとつひとつの小さなゴールが全然目に見えず手に触れられない。そこで、実感を伴う小さな成果を同時に進行させるのである。

それは、ラミカでもバッヂでも洗濯でも掃除でも買い物でもいい。

「今日はこれをやった。遂げた。仕上げた」
そういうものをいくつか織り交ぜることで、手ごたえの感じづらい下準備も確信をもって前へ進め続けることができる。

これに気付くことが出来たのは、じつに反対のことからであるが、CDを取り替えるときに、取り出したCDをきちんともとのケースに戻してから次のCDを取り出してセットする、という手順を踏むように心掛けたせいだ。

大変面白いではないか。

今まで、さまざまなことを効率よくこなそうとして、同時に何かをしなくては時間の無駄遣いとばかりに、何かをしながら別のことを行おうとしていた。見切り発車のように、フライングスタートさせていた。

たとえば、CDを取り替えるときは、次のCDのケースを開けてしまい、前のCDを取り出してすぐ次のCDをセットし、音楽をスタートさせ、次の音楽を聴きながら前のCDのケースを探してしまう。

これで音楽は途切れることがないし、耳で聞きながらでも体は動けるのだから、マルチにうまくやったと思っていた。

ところが、CDを落としてみたり、焦ってみたりする。

料理などでも同様だった。



これを、敢えて愚直にひとつひとつやってみることにした。

他の曲が聴きたい、と思う。

聞きたいCDが心にきまった。(しかし、心の中で、もって来るのは新しいケースよりもしまうケースの方にフォーカスがある。)

今まで聞いていたCDを取り出す。(なぜか、このCDに感謝の気持ちが湧いた。)

取り出したCDをケースにしまう(なぜか、大事にしよう、という思いが湧いた)

新しいCDをケースから出す(楽しみ、ワクワクした気持ちを感じた)

CDをセットし、プレイボタンを押す(新鮮な気持ちで聞きに入ることができた)




以上、「気持ちの区切りがつき、過去への感謝、未来への新鮮な期待と心新たな気持ちが味わえた」

これが、行動パターンをたったこれだけ、ほんのちょっと変えただけの、心の持ちようの違いである。

時間を無駄にしないようにしたいという心構えは、大変正しい。
しかし、「本当に無駄なのかどうか」をよく考えねばならない。


これまでの方法では、確かに時間を短縮したかもしれないし、「自分はうまくやった」といった自己満足があったかもしれないが、CDや曲に対するしみじみとした想い、感謝、期待、などを味わう余裕を捨ててしまっていたのではないか。

無駄だと思ってて切り捨て、得をしたはずの時間に、じつは無駄ではない、大切な、味わい深い、豊かな時間が存在していたのだ。

このことを知り、自分にはひとつの「目覚め」のようなものが訪れた。

ひとつのことからほかの事へと「切り替え」をする時こそ、感謝や祈りの最高のチャンスである。

そこには「す」ができ、そこにスッと神の光とも言えるひらめきや、自分が没頭してしまっているために忘れている大切なことなどを、思い出させてくれるのだ。

長い時間集中できるということは素晴らしい資質、でも集中しているが故に他の物を排除してしまっているという事実にも目を向けねばならない。

私のように集中したら寝ずに三日もそれだけをしてしまうような人間には、「切り替え」は貴重なチャンスだ。
現実世界に戻り、気の世界にも再アクセスする。
テンションをかけて、特定の周波数に調整していたアンテナ受信を、揺らぎのある状態にもどし、自然に入ってくる変調ノイズ混じりの、けれど自然な受信に戻してみる。ノーマルなナチュラルなデフォルトの周波数は、今何を放送しているのか。ちょっとワッチしてみるのである。
とくに変ったことが無ければ、また他の周波数帯に自分を合わせる。
これは、歌を歌う時に一定の音程の声を長く出し続けるようなもので、実際のところかなりテンションをかけないとならない状態なのだ。

続けることはできるけれど、実際には消耗している。この素晴らしい喉を長く大切に使いたいと思うならば、無茶をさせないことだ。

サイン波のように、音を出すことができたとしても
レーザー光線のように、色を出すことができたとしても

やはり、他の音程も出し、組み合わせて音楽となった方が美しいではないか。
やはり、他の色も使い、組み合わせて絵画となった方が美しいではないか。

音楽や絵柄に色々あるように、メロディーライン一本の歌い方もあれば、和音とする歌い方もある。デザインチックなエッジのはっきりした幾何学模様もあれば、境界のあいまいな、色も混ぜ合わせて練り込んだような絵画もある。
不透明なものもあれば、透明なものも…

一事が万事、と言うが、私が幼少の頃から好んでいたものは、ラインがはっきりした、それぞれの色も不透明でくっきりとした、ピエールカルダンのデザインのような幾何学模様、あるいはイラストだった。

少女漫画のような繊細な絵、キラキラが書き込まれた瞳、線の閉じられていない流れっぱなしの髪の毛などは、私の苦手とするところだった。
同様に、少年漫画のような、劇画調で入れられたヨゴシ、影の線、勢いを表すためにギザギザにされたラインなどは、やはり私の苦手とするところだった。

私の好きな絵と言えば、サンリオのキャラクターグッズであったり、外界と内面、背景とモノをくっきりと分けた線がキリッと引いてあり、それぞれが一様な各色もしくは計算されたグラデーションできっちりと塗り分けられ、動きや表情などはないスタティックなイメージの「柄」に近いものだった。

このことは、自分がものごとをきっちり切り分けて整理・理解したい欲求や、白黒ははっきりつけたい、物事ははっきり言いたい、竹をスパッ割ったような後をひかない性格、などの面で、相似形になっていたのだと思う。

現在自分が描いている絵と言えば、いつしか「こういう絵が女性に人気があるらしい。こういう絵が男性に人気があるらしい。」「では描いてみようか」といったお試し的な感覚で自分のスタイルなしに制作して見ている。

また、洋服について先日気づいたと同様に
そして性格について先日気づいたと同様に
絵柄についても、そのような絵に描かれているようなものが好き、とか
そのような絵を描く作家が好き、といったことであっても
自分がその絵を描いて、それが向いているのか、または合っているか、
良い影響や自分との調和をもたらすのか、その絵を見て寄ってくる人たち、そういう絵を好む人たちと自分とは合うのか、等々といった問題とは、また別な気がしている。


自分が囲まれていたい世界が柔らかで明るいものであるのは
陰と陽、凸と凹の関係のように、自分は強くシャープであるせいかもしれないのだ。

自宅の内装や部屋着は柔らかな色にしたとしても、
外装や外出着は、自分を外へ見せているという自覚を持って設定しなくてはならないようだ、とついこのごろ気づいたのだ。

HPも同様で、日記を書くようなブログはパステルカラーでも、HPは濃い色・強い色彩でコーディネートしたほうがよさそうだ、と知った。
なぜならば洋服と同様に、見る者はそれを見て「この様な人、好き」と言って近づいてくることが多く、自分もその印象を持たれることが多いためだ。

やさしそうなデザインのブログに惹かれて、「やさしい絵ですね」と声をかけてくる人間に、自分の素の性格で対応することに気を遣うし疲れると感じてから、それに気づいたのだ。

若いころ、私の洋服が素直で大人しそうだったために、多くの男性が勘違いをして「印象と違うね」と言ったのは、当時は不服だったが今では自業自得だったと納得がいく。


何事も意識してコーディネートしたほうが自分が過ごしやすい環境を作れるのだ。
外へ行く時、一時的に自分の好きなものでなく自分らしいもの、そのように見てもらいたいものに装っていく。

それだけで、自分の居心地、立ち位置、その他諸々のことが、ストレスなく回るようになっていく。

また、形から入るという言葉があるように、長いこと身にまとっているものは自分にも影響を及ぼす。
ハッキリした性格でも、控えめな格好でいると、周囲がそういう人間として扱うために、期待に応えてそのように振る舞っていまい、習い性になる。

絵柄についても同様で、このところ自分が描いている絵はシャカシャカとした線を完全には一本に集約しない。色も淡く透明感があり、時に敢えて外へはみ出させておく。
曖昧に、ぼかして、はっきりさせない。

これが自分の性格にも影響しているし、また、自分の性格がそのようになったことを表してもいる。

ちょっと行動を変えただけで、大きな違いに気づいたように、
ちょっと絵柄を変えるだけで、周囲の人間関係が変化する可能性が高い。
もちろん、ちょっと化粧や洋服を変えるだけでも。


同時にいくつかをオープンして、切り替えつつ、満足を得る。
それぞれは、人に見せる者としての側面を忘れない。

この二つで、今年の気づきの総まとめとしたい。
posted by 成功太郎 at 12:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

悲しみと不満、満足と喜び

赤ん坊だった頃の自分が泣きだす瞬間のことを覚えているでしょうか。
おなかがすき、このまま食事が与えられないのかと思うと、悲しくて悲しくて涙が出てきそうになり、うっと胸が詰まって、泣きたくもないのに泣いてしまうのです。
そう、正直、疲れるので泣きたくないのです。

自己憐憫、それが泣き始めの感情です。
それは、今言い表すなら、「哀しみ」の感情でした。

おなかがすいている時、感じるのは悲しみであって、不満ではありませんでした。
文字通りに、不満足な状態になると、不満ではなく悲しみを感じるのです。
これは、言語的な問題で、事実の認識がねじれてしまったのでしょう。
本当の不満とは、悲しみです。

では俗に言う不満は、何と言えばいいのでしょうか。
それは、不満というより、欲望です。
一般に言われている「不満だ」というセリフは、「自分がこのようになればいい(あればいい)と思っているこ事を前提にそうなっていないことが不愉快である」という意味でしょう。
欲望ありきの不愉快さ、です。


一般に、悲しみの反対は喜びであると言われています。
しかし、悲しみの正体が本当は不満なのだとしたら、これも違うでしょう。
悲しみの反対は、満足です。悲しみが消えるには、満たされることです。
悲しさが癒える時と言うのは、嬉しいことに喜んだ時ではなく、不満から満足へと変わった時です。満ち足りると悲しみが消えるのです。

喜びというのは、「不足しているものを」埋めるということとは限らないでしょう。
別に困っていない時、思いがけず友人と合って喜ぶ。暮らしに困っていなくても、物をもらったり宝くじが当たれば喜ぶ。
不満や不足を満たされるときの悦びとは、俗に言う満足であって、一般に言う喜びとは、不満や不足がなくても生ずる、得した気持ちです。
この場合の得とは、「会得する」のように、文字通り「得た」ことに対するもので、努力して頑張って身につけた技や勝利などに対しても、喜びが生じます。

喜びとは今ここからプラスへ向かうものであり、満足とはマイナスからゼロへ向かうものです。

不満とは今ここからプラスへ向かい何かを得たい気持ちであり、悲しみとはマイナスにある自分に感ずるものです。

この四つは、本質的な部分を考えれば、反対語が入れ替わっているのです。

得ていない不満。得た喜び。

満たされない悲しみ。満たされて満足。


このような言葉のねじれがあるから、不満な人はこの不満がなくなるには満足を感じることだと思ってしまうかもしれませんが、それではいつまでも「満足」と感じることがない。

悲しい人が悲しみを癒したくて、喜びがいっぱいあれば癒されると思っても、いくら喜びを得ても現在の不足が満足されなければいつまでたっても悲しみがいえないのです。


にもかかわらず、満たされなさという悲しみを癒すために、何か別なものを得ることで穴埋めにしようとしてしまう人のなんと多いことか。

言葉が間違っているからいけないのです。

不満な人は「満足したい」などと思わないことです。不満は解消しても「満足」ではなく「喜び」が感じられるだけです。
なのに「あれほど求めていたのにあんまり大した満足を感じなかったのでガッカリ」などと勘違いするのはもったいない。

欲は満たしたところ満足ではなく喜びになるのです。

そして、悲しみと満足は人間の根本的なものですが、不満と喜びは根源的なものではありません。
欲のない人間には不満はなく、それが普通よりも得した状態になることを知らない人間には何を得ても喜びはやってきません。


色んな事を知ってしまうから、不満が生ずるのです。
でも色んな事を知ったお陰で、喜びも生ずるのです。

自分が生まれ育った環境で満たされている人は、毎日当たり前に買い物ができても、それが特別なことだとは思わず、特に喜びもしないでしょう。
お金があまりない人は、いつもよりも多い金を手にしたら喜びの感情が湧くのです。

時間的「普段」や、環境的「普通」といった基準を知って初めて、不満と喜びはやってきます。

何も知らない無知の赤ん坊は、悲しい気持ちと満たされた気持ちの二通りしかありません。

それは、これらが感情ではなく「体の声」だからです。

ということは、満たされた人生のためには、衣・食・住といった、恒温動物として生きていくのに必要な周囲の要素が大切になります。

熱すぎず寒すぎず、甘すぎず辛すぎず、暗すぎず明るすぎず、快適な洋服、適量の栄養、安全な居場所、これらがあれば、人は基本的には満足ができます。

自分がリラックスしていられるための、こういった要素を奪おうとするものは「戦うべき敵」であり、敵に対して我々は自然と身がまえます。
強すぎる太陽だったり、冷た過ぎる空気や金属、体を傷つける尖ったものや、イバラや石、それに、こちらが関わろうとしなくても向こうからちょっかいを出してくる動物たちです。これは、オオカミや熊だけでなく、身近な人間も含まれます。

親しみを込め、協力するよ、役に立つよと声をかけてくれる者は敵ではありませんが、そこは俺の場所だからどけ、とか、お前のその状態は気に喰わないから変えろとか、お前は俺のために働けと、こちらが望んでも申し出てもいないのに一方的に言ってくる者も、本能によって深い所で敵と判断されています。

全く同じ要望でも、自分がぜひそうしたいと望んでいるときには、いくら支配され命令されても敵ではなく仲間と判断されます。

これは、細胞同士が連携して働くように、人間もまた、組織だって働く動物としての本能があるからです。

そのため、仲間や種族の全体に得になることがひいては自分の得になるような場合は、進んで自分の労力や時間を提供しようとするのです。

得になることをすれば、そこには喜びがあります。
奉仕の喜びとはそういうものです。自分が進んでそうしたいと思っていなかったら、自分の時間やお金や体力を費やすことに「嬉しい」「喜ばしい」「光栄だ」などといった感情がわかないようにできているのです。

強欲にならないかぎり、適度な欲求が人を向上させ、進歩させます。

悪いのは、長い目で見たとき、大きな目でみたとき、広い視野で考えた時に、トータルで全体に得にならないのに、その個人だけが得をしようとする場合の欲を、周囲に止められたり咎められたりしても貫き通そうとするような強欲です。

全体に良いと思うならば、自然と周囲の人間も付いてきます。
支援が入り、受け入れられ、賞賛されることもあるでしょう。

基準は、そういった周囲の写し鏡です。

しかし、本当は、自分自身の奥底が知っています。
種の全体としての集合無意識に各自もれなくつながっているからです。

その行為が奉仕となり喜びをもたらすかどうかは、自分の真の心に問えばいい。「本当にやりたいか。誰の、なにのためにやりたいか。それによって、誰が、あるいは何が、どのように得をして、良くなったり喜んだりするのか。その行為を自分は「誰かに何かを提供するような気持ちで」ぜひやらせて下さい!と思っていることなのか。

Yesならば、自分は乗り気で、疲れづらく、周囲は寛容で、応援の声もかかるかもしれない。

Noならば、迷いがあり、疲れやすく、周囲は冷淡で、誰からも声をかけてもらえないかもしれない。


赤ん坊の智慧と、大人へのメッセージ。役に立ったでしょうか。





敵が存在すると我々はリラックスできません。幸せでないのです。

本当の敵は、
posted by 成功太郎 at 11:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年12月04日

寝起きの3分間が勝負

徹夜明けの頭の方が、寝ぼけた頭よりも明晰であるという研究結果があるようだ。
よくある「睡眠学習」や「夢の無意識への刷り込み法」などでは、寝ぼけた状態こそが潜在意識を剥きだしにしているというのだが、それは一体起きてからどのくらいの時間なのかというのがあいまいだった。

この研究では、3分間という時間がはじき出されている。
寝起きの悪い人では、10分間、重度の寝ぼけが継続するらしい。

逆に言うと、目覚めたときに地獄のような眠気の中にいる場合でも、無理矢理体を起こすのではなく、かといって眠りなおすのでもなく、あきらめずに10分間だけ、眠気と格闘してみれば、15分後には目覚めることができるのではという希望が見える。

では朝日記をつけるにはどうしたらいいか。
目が覚めてからのほうが良いだろうから、この3〜10分の寝ぼけをやり過ごしてからつけ始めると気分がいいだろう。

眠すぎて朝の日記やワークがどうしてもできそうにないと敬遠している人には明るいニュースだ。


提供:WebMD

脳の始動に要する起床後3分間は注意散漫であることを示す小規模研究結果

Miranda Hitti
WebMD Medical News

Reviewed by Louise Chang, MD
posted by 成功太郎 at 12:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年10月16日

脳には8分間が必要、らしい

成功するためには時間管理も必要。とはいえ一般のスケジュール腸はまず時間ありき、で時間軸の中にいきなり予定を入れていく。
時間に縛られた思考のクセから、目的思考に変わるために、ToDoを管理するcheck.padをその間に入れたい。

芸術家や空想家は、逆に時間というものを忘れすぎてしまうというが、バランスが大切だ。
まず自由に夢を見ること、それをボリュームあるものへと思い描くこと、そして実現するにはどんなモノやどんな助っ人やどんな行動が必要であるか構成していく力、そしてToDoリストにしたら、実際に24時間365日を上手にOn/Off使い分けながら実現していくために、ToDoをスケジュールへと配分する能力が必要なわけだ。

10月になったので本屋にはあまたのカレンダー・手帳・スケジュール超がならんでいる。
ToDo管理にはネット上のCHECK.PAD、その流れを管理するヤル気ノート、そして使い慣れた手帳、この三つ巴で望めば怖いものなしだろう。
posted by 成功太郎 at 14:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年09月29日

人から与えられる賛美や屈辱に狂わされるな

寵愛や屈辱は人を狂わせる。

それはどちらも大きなこだわりとなる。
賜りもの病という患いに罹ったのである。

この賜りものを自分そのものであるかのごとく尊いものとして扱っていると、狂いっぱなしになる。

立場が受身になり、与えられては狂ったようになり、失っては狂ったようになる。続きを読む
posted by 成功太郎 at 19:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

人の世とは 〜天人地〜

天と地の間はフイゴのようなものだ

間には何も無いが、動かせば動かすほど力が増してくる。



 天と地の間に人の世がある



・・・だが、言葉を使えば使うほど窮地に陥るように

動かすのもほどほどに控えたほうが良い。



 抑えきれなくなれば、窮地に陥る。
posted by 成功太郎 at 19:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

道を得たもの 5

天地には思いやりはない。

全てを祭のワラ人形のごとくに扱う。
ワラ人形は祭が終われば踏み付けられてしまう。

道を得た者にも、俗に言う思いやりはない。

人も自分も物も、すべてはワラ人形のように考える。続きを読む
posted by 成功太郎 at 19:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

道を得た者は 7章より

道を得た者は

自分自身をいつも外側に置いているかのように感じながらも

しっかりと自分自身の居場所がわかっている。
posted by 成功太郎 at 19:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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