だが、そのイメージを大人として再解釈して、まったく違った怖いものなしを目指すのは成功への一歩だと信じて疑わない。
大人になればなるほど、怖いものは増えていく。
しかし、子ども時代に当たり前のように感じる怖い対象と言うのは、実は戦いを挑む相手などではなく、素直に逃げる相手であることがほとんどだ。
子供の本能と言うのは自分の身を守るために正しい反応を引き起こすのであって、それを麻痺させて怖いと感じないようにしてしまっては、せっかく備わっていた本来の野生のセンサーを鈍らせただけということになる。
大人になってから克服すべき怖いものには一体どんなものがあるだろうか。
これは個人差が出てくることだろう。
だが、例えば、潔癖症気味の人にとって克服すべきものと言うものを上げるならば、それは「汚いもの」ということになる。
チリ、ホコリ、カビ…そういったものを「汚い」「汚らわしい」「怖い」と感じてしまい、避けたり、触れることができない人間。
それはすなわち、その者に「弱点がある」ということにほかならない。
だが、この世に本当に汚いものなどあるのだろうか?
この弱点を克服し、怖いものなしになれば、汚物を平然と片付けることも、汚物の中にある宝石を、手を突っ込んでつかみ取ることもできるようになる。
そもそもゴミ、ホコリ、とは何だろうか?
これらは一体どこからやってきたのだろう?
まず、「ちり」という言葉を再評価してみるといい。
これは、本来は洋服の一部の繊維であったり、そとの土が舞い散ったものであったり、いわば、所属しているべきところに所属していれば、一員として汚くも何ともないものが、母体を離れ、組織やまとまりを構成する要素であることをやめて、散り、離れてきたものである。
本来あるべきでないところに、あるべきでないものが存在する、それが「ちり」であり、「役に立たない、ゴミ」なのだ。
糞便ですらも、体内にあった時には大事な体の一部だった。
「もういらない」と排泄した時から、それは無用の長物となり、むしろ離れてどこかへやってしまいたい邪魔者となる。
社会でもそうだ。自分自身がゴミとならないためには、自分が所属するべきところを見つけ、そこから振り落とされないように、中へ中へ、と潜ろうとする、すなわちまとまっていくことが良いと知っている者は、組織を構成しようとするか、同質の者同士で団結しようとする。
それがちっぽけであると、大きな目線で見た時にその団体ごとチリとなりかねないので、ますます大きく育とうとする。
散りたくない、それが、自分たちは汚いものではなく、ここに、いま、存在しているのだぞという決意表明となっている。
社会的に生きる法人などもそうかもしれない。
これらはただの似た者のまとまりであれば、「土」である。潤いを無くし、吸着力が減れば、どんどん外からの風で吹き飛ばされて土ぼこりとなる。
組織だっていれば、結晶が育って宝石や貴金属となったのであり、男性陣は主にそうあることを望む。純化がこれを生む。競い合い、研ぎ澄まし合う。まさに澄んでいく。
したがって、それ以外は「ゴミのようだ」と感ずる集団だ。これを目指す者たちには少々人を見下したがる傾向があるように見受けられる。
だがものはすべて固定的ではなく、離れるものがあり、新たに仲間となるものがある。
一時的なチリであっても、また自分を生かす場があれば、チリはチリなどでなくなるのだ。
もしも自分の身の回りが「散らかって」つまりチリだらけになっていたなら、これを「汚い」と言って忌み嫌うものは、この世界の真理の役に立っていないと言えるだろう。
役だっていないものを再利用すること、まとまっていないものを再び同じ者同士でまとめること、それは散らかりを片付けることで、整理整頓は世界のため、と言える。
土ぼこりも綿ぼこりも、どこかで誰かの役に立ったり、美しい、素晴らしいと愛でられていた自然の一部だったりしたものが、はぐれものになっただけなのだ。
これらを愛おしみ、「どこからきたの?」と心の中で親しく話しかけ、感謝し、「また良い仲間に出会えますように」「また有意義に働ける場所へ行けますように」と祈ってあげて、ほうきや掃除機で「スック無くともここはあなたの活躍できる場所でも居るべき場所でもないから」と教えてあげる行為が、清掃なのではないか。
だからこそ、「真の掃除」をすることのできるものは、ただそれだけで心の修行をしていると言える。
何事にも道があり、掃除道も極めればこのようにひとつの心理にたどり着くことができるのだ。
この境地に達すれば、なにものも「汚い」などという考えがなくなる。
いきなり境地に達すること等は無理かもしれないが、少なくとも嫌悪感、触ることもできないという気持ちはやわらぐはずだ。
ケガレにさわると自分も穢れそうで嫌だと忌避するのは、実は自分が弱いこと、衰えていることの表れである。
怖いのは、相手に負けてしまいそうだからだ。
汚いもの、穢れたものに触ったら、相手の穢れを祓うことができる、と考えるか、あるいは自分の清さが負けて相手の穢れが浸蝕してくる!と
恐れるか…
赤ん坊と言うのは汚い場所へでも何でも突っ込んで行ってしまう。
子供は泥遊びや犬のフンなどの汚いものが好きだったりする。
彼らはフレッシュで勢いがあり健康だから、相手の汚さが自分に入り込んでくるなんて恐れがない。
どんどん新陳代謝を繰り返し、かりに皮膚ににおいが着こうとも、そんな皮膚ごと外へと送りだしてしまうからだ。
元気な証拠なのである。
老人はどんなに汚いものに触れないように頑張っても、なぜか自分自身が汚いような気持ちになったりすることがある。体臭、口臭、フケ、シミなどといった、いわゆる「本来あるべきでないもの」が体にまとわりついて歩く。
子供の方が新陳代謝が早く、どんどんチリとなるものを発生していると言うのに、この差は何か?
それは第一には長期間滞在しているということ。フケだって出た途端に吹き飛んでどこかに行ってしまうのならば、出したって汚いと思われないだろう。だが頭皮や髪にまとわりついたままになっているから不潔に思うのだ。
第二に、潤いの無さ。乾燥して肌や頭皮がガサガサとしてはがれおちていく、バラバラと風に飛ばされていくのは、まさにチリを大量発生しているのが目に見えて判ってしまう。
ところが、若い子供は、乾燥で離散することはなく、潤いを保ったまま、水に流す。
バラバラにさせずに、親水性のあるいは新油性の、液状のものに見えないように溶かしこんでいる。
液状のもの・・・それは潤滑油だ。
社会でもそう。ある組織からはぐれた技術者が、一旦失業をして、そののちに再就職先を見つけるのが、老いた体の象徴だとすれば、まだまだ所属組織で働いている技術者に仲介者がスカウトの声をかけ、あるいは大量の豊富な求人情報を見てスキルアップのために、はぐれオオカミになることなく、チリとなることなく、スムーズに次の組織へと転職していく・・・それが若い体。
まだまだ使えるのに、いや、まだここにいて欲しい位だったのに・・・と惜しまれながら、その組織から別の組織へ。
それは失業者の無い世界だ。
固定的な組織に属していなくとも、流動性のある仕事をする者たち、この媒介者たちがあるかないか、あったなら、その質が良いかどうか、正しい働きをするかどうかが、社会にチリ・ホコリを作らないためのポイントである。
家庭内で言えば、適度な湿度でモノが保管され、水ぶきや油で磨き、水洗いされて流されていれば清浄度が高い。
うるおいは大切だ。
感想し、紙クズや洋服から千切れた繊維が離散するほど、チリは増える。
だが、これらのチリは決して本質的に汚いわけではない。ミクロの世界で見れば、何か意味のあるものを構成しているものも、構成していないものも、なにも変わらない物体であったりする。
汚いなどと顔をしかめるのでなく、お勤め御苦労さま、いまは休んでいるのですね、と語りかけることが出来たなら、怖いものはなくなる。
かれらチリのために、どこか適したよその場所へ、移動するための第一歩を歩ませてあげることだ。
祝福して送り出してあげられるか、使い捨てのように顔をしかめてとっとと出て行けという気持ちで捨てるのか、これだけでまったく徳が違う。
小さな世界のチリをただの汚いもの、用をなさない、役立たずのものとみなすような人間には、当然ながら大きな世界でも同じような無意識の視点を持っているものだ。
道具でも、組織でも、人間関係でも、自分の役に立っている間だけ、自分の都合のいい働きをしている間だけは関係を持とうとするが、都合が悪くなった、必要がなくなった、興味が失せた…となった瞬間に、「邪魔だ」と顔をしかめ、邪険に扱うようになる。
こんな人間が会社など作ろうとすれば、どうなることか。
彼らは、組織を作ろうとしている時だけは、まるで理想的なものを作り出せるかのように夢を描いているだろう。何かをしたいと思う時には、それに関わるすべての人や物は自分にとっての必要なものだと認識できているためだ。
すべての構成員は光輝いているように思い、全身全霊で祝福しようとし、もしも彼らが自分の元を離れる時には、応援とはなむけの言葉をかけて全ての構成員を円満退社させてあげられるに違いない…と信じ込むタイプである。
だが実際に、人間には欠点もあれば弱さもある、時には悪意もある。
これらに翻弄されても、自分に都合のいいものと悪いものを見分け、致命的なものを遠ざけつつも、なお清濁併せのんで潤いを保たせることができるかどうか?
去りゆくもの、去って行ったものは「もう関係ない」とフォローしないことが多い。
子の様な人間が若い頃から惹かれる言葉に「来るもの拒まず、去る者追わず」といったものがある。
実践すればどうなるか?
チリが積もっても払わない。そのまま癒着する。
風に吹き飛ばされそうになっている者にも手を差し伸べない。
組織化されないごちゃ混ぜの土が、表面に滞っている、しかも風呂にも入らない、老体の姿である。
これは本来、十分に酸いも甘いも噛み、経験も十分に積んでから初めてそれがよいのだと感ずるようになる達観の境地であって、それまでにはトラックを何周かして学ぶべきものがたくさんある。
だが、体の弱いタイプ、ヨゴレ、ケガレを嫌がるタイプ、失敗して泥に手を突く転び方をするのを恐れるタイプは、いきなり老人になろうとする。
人生の学びを放棄して、あたかも経験を積み終えた成功者のようにふるまおうとする。
中味の無い、空虚な背伸び・・・それは年輪のない、皮だけの樹木のように、かんたんに折れてしまう。
外からの見た目だけを真似した所で、それはサルまねに過ぎない。
自分に興味を持ってくれた人、好意を持ってくれた人、便宜を取り計らってくれた人…そう言う人に、いつまでたってもこちらから感謝の握手を差し伸べることもなく、自分に興味のない人間、利用するだけしようとする人間と全く平等に扱って「ひいきをしない自分」などと悦に入る。
良いものを育て、悪いものをけん制すると言う社会的道義を放棄して、世捨て人を気取る若者になり果てる。
自分から努力をしないため、他人が自分との関係維持に努力をしてくれているかもしれないということにすら気付けない。
他人の気持ちのわからない人間の一丁上がりである。
そして人の心を傷つけても、「自分は何もしていないので相手が勝手に期待をして傷ついた」というモノの見方をする。
したがって去っていく友人知人には、まるで邪魔だったゴミが風邪で飛んでいっただけかのような目線しか持っていない。
心に潤いのない人間と言うのはこうだ。
そして、汚いもの、汚い場所がキライで、自分では触りたくもなく、メンテナンスできないと言い、理由は自分が清過ぎるからだと信じている。
だが何度も言う。本当に清ければ、周りまで清さを及ぼすことができるのだ。
世の中が汚い、自分だけが綺麗だと感じている人間は、チリをチリとしか見ることができず、過去や未来の可能性に頭が働かず、感謝が足りず、夢や計画を描くことのできない人間です、と自白しているようなものだ。
このことに30代、40代になって気付いても、過ぎてしまったこれまでの人生を修正することは不可能。
だが、完全に遅いとは言えない。
もしも気付いたなら、急いで「節」を作ることだ。巨木にはなれないかもしれないが、巨大な草になることならできるかもしれない。
つまり、松がダメなら竹のようになればいい。
定期的に、大きな失敗や大きな恥のリスクを取って、傷口に頑丈なカサブタでもつくるように、人生の転換、大きな節目を作ることで強くなれる。
節目の後は、生まれ変わったように別の世界が見えてくる。
その一歩が、世界観を変えること、認識を変えることだ。
この世界・この宇宙はすべて同一のものからできたのであって、本質的に汚い「もの」などはない。
汚い、というのは、あくまでもモノの「状態」に過ぎないのだ。
置かれた状態、陥っている状態を変えることができるかどうかは、自分の体の「元気」心の「健康」によって決まる。
本当に綺麗で活気のある物は、汚い状態のものに触れてもすぐに洗い流すことができたり、さらには汚いと思われていた状態を改善して必要な状態のものに変えてしまうパワーすら持っている。
状態や状況を変える力が自分にあると信じることができるかどうか、それが若さであり美しさであり穢れのなさなのだ。
無関心、無関与、諦め、判断力の無さ、ふるい分け能力の無さ、これは病気または不健康、傷ついた状態、あるいは老い、の現れであり、それをケガレという。元気がなく、気が枯れているから、チリまみれの状態になっているということだ。
考えが変わったら、さっそく元気いっぱいの人間になって、世の中を浄化してほしい。
まずは自分の体から、そして自分の部屋から、自分の人間関係から変えていくことができる。
元気がある人間は、怖いものなしだ。
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